Cobaringの若返る健康法を伝授!

伝統的な日本型食生活を腹八分目食べることで瘦せられるばかりか健康を維持することができる簡単で経済的な若返る健康法です。

やせる秘訣は戦前生まれの母親の食にあった

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戦前に生まれた母親

私の母親は昭和6年の生まれですが今も生きています。
心不全で一度は死にかけ、退院後要介護5の評価で施設に入り、転院を重ねるうちに今では、自宅で生活できる要介護1にまで回復しています。
とはいえ、母親の面倒を見ている姉が働いていること、一人で動けない母親が寂しくないように今でも施設を利用しているのです。

※2020年8月25日に他界しました。享年89歳。

元来私の母親は伝統的な日本型食生活を地で行くような人で、ご飯中心でおかずをご飯に見合う量を何の基準も設けずに食べてきました。決して太ることはなく、たまに食べ過ぎてはお腹を壊したりして反省していました。そんな彼女はつい最近まで太ることもなく、長い間痩せた状態をキープしていました。

彼女は典型的な専業主婦で、貧しいながらも、外に働きに出ることはなく亭主に頼りっぱなしでした。自分が働きに出てしまうと、亭主が全く家に金を入れてくれなくなり皆稼いだ金を使ってしまうことを憂慮して専業主婦に徹していたのだと納得いくようないかないような理由を聞かされて育ったのです。
そんな母親でしたが、亭主の稼いできたお金だとはいえ、自分の好きなものを買ってきて食べることもあり、お赤飯であったり、みたらし団子であったり…鯛焼きなどもたまに買ってきておりました。昔の専業主婦はみなそうだったのでしょう。今思えば私の継承する食の理論から言えば、太るほど食べられないジャンルの食べ物が好きだったように思えます。
さらに思い出すことといえばアジのフライやアジの天婦羅なども好きで近くの総菜屋から買ってきては食べておりましたが、基本はご飯のおかずとして食べていました。今考えればよく太らなかったと思いますが、ご飯+アジの天婦羅1枚ぐらいの質素な食事であったからなのかもしれません。

やせていた母親

今考えれば私の母親は、多少テレビの影響等も受けてはいたものの、特に太るとかやせるとか栄養バランスとかを気にしているようには見えませんでした。それでも彼女の太った姿は見たことがなく、私も姉も彼女の作ったものだけを大人しく食べていれば、太ることも、肋間神経痛に苛まれることも、ニキビにすら悩むことはなかったのかもしれません。

私が小学校の時に、背が低いことを気にして、牛乳を飲んだり、タンパク質の多いものを食べたり、雑誌の広告を見て、背を伸ばすのに“アミノ酸リジン”というサプリメントが良いと知り、母親を口説いて買ってもらったこともありますが、「(背の高い)久人叔父さんや~さんは皆そんなもの飲まないでご飯と野菜と家で作った味噌ぐらいで皆大きかったに」とこぼしてはいたものの、自分の与えた食事がいけなかったのかと責任を感じ、“アミノ酸リジン”を買ってくれたのでした。



背が伸びなかった私

しかしながら、背は一向に伸びることはありませんでした。実をいうと当時は体操が好きで鉄棒やら砂場でやらで暴れまくっておりましたし、子供に似つかわしくない筋肉をしておりましましたので保健の先生を驚かしたものでした。これが身長を伸ばす抑止力となったのは言うまでもありません。体操選手の多くは背が低いことで知られていますが、筋肉が骨の成長を妨げていると思われがちです。私もそう考えていた頃がありますが、食の理論を知るうちに、エネルギー配分であることを知りました。運動するエネルギーが多く、筋肉を作り上げるのにエネルギーを消費していたら骨の成長にまでエネルギーが回りません。体操の選手で稀に背の高い選手がいますが、もちろん遺伝の要素も捨てきれませんが、器用で練習量が少なくて済む選手であったり、たくさん食べて良く寝る選手に大きい選手がいるのを聞いたことがあります。
特に女子選手の場合は演技を美しく見せたり、高度の技を行うのに、大人の体が出来上がる前から食事制限をする人が多く、なおさら身長を伸ばす方にまでエネルギーには回りません。

ニキビや肋間神経痛に悩まされた中学時代

姉の女子向けの雑誌から得た昔の正しくない栄養常識で綴られた美容ノウハウでニキビを直すには炭水化物を少なめに良質のたんぱく質を…的な情報で当時のやせるダイエットに似ていることを感じ取っていました。成長期でしたし、やせる必要に迫られていなかった私ですが、そういった誤った情報から奇妙な食事をしておりました。
私の母親は「昔はご飯と漬物と野菜の煮たもので、たまに干物を売りに来た人から干物を買って焼いて食べたくらいで、年頃に少しばかりニキビができたってそのうち自然に治っちまったよ」と耳を貸さない私に半ば諦め顔でしたが、そんな私に天罰が下ったのです。それは肋間神経痛でした。最初はピリピリと胸や背中などが痛む程度でしたが、やがて夜中じゅう呼吸もできないほど胸が痛み、一睡もできないこともありました。
やがて極端なみょうちくりんの食事療法も親元にいながら、しかも学校給食も食べながらで長く続くはずもなく、伝統的な日本型食生活とは言えませんでしたが、主食を食べる日本人の食事に戻っていく中で、ニキビも肋間神経痛の症状も消えていきました。今思えばタンパク質の摂り過ぎが災いし、腎臓を酷使したのが原因であるように思えてなりませんでした。

小遣いをもらっていなかった私は昼食代を浮かせて小遣いに

貧しい家庭で十代の青春時代を育みながらも私は都内のとある私立高校に通わせてくれました。事情はともあれ、都立高校の入試に十分に力を発揮できた感がなく、発表も確認せず、某私立高校に行かせてくれるよう懇願した結果でした。
小学生の頃より定期的に小遣いをもらう習慣がなく「欲しいものがあったら言いなさい」と欲しいものによって与えるか与えないかのジャッジが下されていたのです。それは高校生時代まで継続されていました。
何が言いたいかと申しますと、昼食代だけは日々もらっていましたので、いかに昼食代を少なく抑えて、自由に使える小遣いを捻出するかということを行ったのですが、それが太りやすい体を作るきっかけとなることを知る由もありませんでした。昼は食べないか、一番安いラスクのようなものを食べ、夕食時極度の空腹状態で、食事をしていたのですから太りやすい体になるのは明らかでした。もっとも昼食時に安く高カロリーのものを食べていたらそれはそれで良くない不健康の礎を築いた可能性も否めません。

アルバイトは飲食店

アルバイトは高校の時より長い休みを利用して飲食店でアルバイトをするようになりました。「男は料理出来たほうがカッコイイ」「独り暮らしになっても料理ができれば食事に困らない」「飲食店では賄(まかない)がついている」「飲食店の仕事はなくならない」など様々な理由から、アルバイトするなら飲食店と決めていました。当時は賄でピラフやナポリタンをよく食べましたが、やせてはいなかったものの、太ることに関してはさほど警戒もしていませんでした。いわば澱粉中心であれば、極端に太ることはないことを裏付けたような青春時代といえましょう。
とはいえ、職場が変わり、客に提供するメロンソーダをグラスをレバーに押し当ててることで、注ぎ口からグラスに供給されるタイプになった時があり、自由に飲んでよかったわけではありませんが、一日に何度も飲む機会が増えました。そればかりかサンドイッチやバタートーストを食べる機会が増え、いつの間にか二重あごになってしまいました。着る服は似合わず、いつの間にか異常に疲れやすくなっていました。

ある日、夕飯を食べ終えて数時間したのち、「ねぇ~夕飯まだ?」と母親に問いかけました。「やだよ~さっき食べたじゃない」と言われ、まるでぼけ老人のようま返答をしてしまったことに気が付いたのです。完全に食欲中枢がくるっていたのでしょう、異常な疲れ方はまるで糖尿病のようでした。精密検査こそしませんでしたが、もし精密検査を受けていたら、糖尿病と診断されていたかもしれません。さらに追い打ちをかけるように母親は「何よその首は、変じゃねぇ?」と半ば心配そうでもありました。

ダイエット決意

疲れやすい、何を着ても似合わない、異常食欲、二重あご…両親がやせていて自分がやせていたため、やせるダイエットなど無縁と考えていた私もついにやせるダイエットを決意したのです。
やせるダイエットの知識のない私はとにかく、ご飯を半分以下にし、おかずも太りそうなものは敬遠しました。職場でも、食事以外で飲むものはノーシュガーのブラックコーヒーのみ、昼食の仕出し弁当はご飯には手を付けず、太りそうなおかずにも手を付けませんでした。
やがて顔が小さくなり、体のほうもスマートになっていきました。驚きなのは、蓄膿症で、孔を開けて膿を出さないと良くなりませんと手術を仄めかされておりましたが、(正しい方法ではないとはいえ)ダイエットすることで症状が消えてしまったのです。食べ過ぎによる血液の酸毒化による蓄膿症でしたが、喫食量を減らすことで、体への負担が軽くなり快方に向かったのだと推測しました。

その後、親元を離れて一人暮らしを始めたり、職場が変わったり、通っていた某専門学校を中途退学したりなど誤ったダイエットをしながらも、色々な局面を迎えてまいりました。
一方では歩く脚に力が入らない、立ち眩みなど体調の不良を感じるようになり、きちんと食事管理しなければならないという危機感を抱くようになったのです。
最初に手にしたのは女子栄養大学の食品成分表でした。成分のデータ以外にも、各成分が及ぼす体への働きなども知ることができ、昔家庭科や生物、保健体育などで習ったことがあることも思い出したりしたのでした。
当時、脂質と炭水化物でも糖質の方は熱や力となると再認識し、甘いものはご法度とはいても「使い切ってしまえば太らないのでは?」とかタンパク質が血や肉となるならば、「肉はもういらないし、血は必要だけれどエネルギーとして使ってしまったら、血にならないのでは?」とか様々な疑問が生じながらも、得られる書物からは明解な解答は得られませんでした。
そして「やせる革命」という衝撃的なタイトルで西田式ダイエットが世に出たのです。理論はさることながら、グルコマンナン&ペクチンという補助食品が食べたものを帳消しにしてくれるが如く、脂肪への吸着、満腹感の創出、血糖値の安定化などの効能が謳われ、私の心を釘付けにしたのです。

やせてからの体重キープにダイエット法を取り入れたわけですが、西田式をどのくらいの期間取り入れて実行したのか記憶はおぼろげです。その頃から巷では様々なダイエット法が次々に出てまいりました。
そうこうしているうちに、「寝ている間にやせる」「すぐにやせられるのでいつまでも続ける必要がありません」というSDA(Specific Dinamic Action)を利用した高たんぱく食事療法に巡り合いました。アトキンスダイエットと違うところは、脂肪の摂取も極力減らしているところでした。別の頁でも触れましたが、確かに早いスピードでやせられたのですが、解禁日にドカ食いするものですから、疲弊しきった腎臓は容易に水分を排泄してくれません。一日で7㌔㌘も体重が増えたり異常な体験をしたのもこの頃です。

真のダイエットとの出会い

そのうち新しい人との出会いやら、自分が奇妙な生活を続けていることに気が付き始めた自分は、いつかは正しいしダイエット法かすごいサプリメントが出てくるに違いないと期待しながら、暫くは縛りのない自由な食事を続けていたのでした。

そして最終的には今現在継承するところの澱粉を主食とする伝統的な日本型食生活に巡り合い、母親にそのことを告げると「ほれ見、私の言った通りじゃ」とドヤ顔で話していたのを思い出します。当時住んでいたアパートの大家に話す機会を得たときには、「うちのおばあちゃんも全く同じことを言っていたわ。それが一番だって」と戦前を生きてきた人は皆そういうに違いないとも言っていました。
つまりダイエットの成功のカギは戦前を生きてきた母親が続けてきた食生活にあったのではと今更のように思うのであります。
因みに施設にいる母親は、施設の食事で見たこともない脂肪が胴回りについてしまっています。